依頼者からの借金体験記

30代女性の1000万借金ストーリー

借金をするに至るまで

私が債務整理をするに至った経緯は店舗の運営費用として借りたのが始まりです。経営者が債務整理に陥る場合、「経営能力がなかった」とか「経済環境が悪かった」などと金銭感覚とは別のところに理由があるように思われがちですが、私の場合は特に、根本的なところでは「生活費の不足を補っている」内に借金が増えてしまった方々となんら変わらないと思っています。

なぜなら、私はアパレルの店舗を始める前、普通のOLをしていた時代も、借金こそはしないまでも常に毎月のやりくりに追われていたからです。貯金もせずに、海外旅行だ、新しい化粧品だとお金を使い、足りない分はボーナスや、不用品をオークションやフリマで売って稼いで補てんする、という日々が続いていました。

時代がまだバブルの名残を残していた時期だったからかもしれません。「やりたいことは若いうちに行おう。借金してでも思い立ったらやってみよう。後から返せばいいんだ」という風潮がまだまわりにありました。

土地の値段も給料も永遠に上がっていく、今では考えられない、そんな神話を誰もが信じていた時期でした。

コツコツと節約して貯金をしていくのがダサいと、少なくとも私のまわりでは思われていたのです。「弁当男子」が流行る現在では考えられませんよね。

ともあれ、そんな時代背景も伴い、決して安くはないお給料を使い果たしてしまうことに何の後悔もなく、若い時代を送っていた私は、そんな日が続けば、いつか、なにかのきっかけがあったら、借金をして返済に追われる生活をするようになるのは想像に難くありませんでした。

でもそんな事態に陥る前に、ある日、ただのOLだった私にひょんなことからお店を経営するチャンスが訪れたのです。

母親が半分趣味で経営していた喫茶店を閉めることになったのですが、その場所のお家賃がまわりの相場に比べてかなり安いのでこのまま引き渡してしまうのはもったいないのではないか、という話になったのです。

「なんかやりたいことがあるのなら、この場所を使えばいいじゃない」と母親に言われ、それまでまったく考えてもみなかった「お店を始める」ということを真剣に考え始めました。

折しも雑貨のブームが始まったころで、雑貨の雑誌なども次々と創刊されており、「OLをやめて雑貨店主に転身!」なんていう記事が紙面を飾っていました。

「自分のお店」という響きに憧れ、「経営者になる」ということに、一段出世するような気分が伴い、その場所を使って「雑貨店を始める」ことにしたのです。

今となっては、「経営とは始めることではなく、続けていくことだ」というのが身にしみてわかっていますが、その当時はそんなこと考えもせず、利益率や毎月いくら売れば生活が成り立っていくのか、ということもロクに検証しないまま、「自分のお店を持つ」ということに憧れ、見切り発車してしまったのです。

母親が単価の安いコーヒーなどを売って生活していたのを見ていたので、「自分でもできるだろう」と、甘く見ていたのかもしれません。

いざ始めるとなりどんな品揃えをするのか考えたところ、ロマンティックなヨーロッパ風の雑貨は趣味ではないし、好きではないものを扱ってもわからないのではと悩みました。まして、いきなり思いついたことですから、そのための資金などもまったく蓄えていません。「アジア=安い=資金がそんなになくても商品が揃うかも」という発想で、他のアジア雑貨店を見て回ったところ、タイからの輸入品が多かったので、タイに雑貨を買い付けに行くことに決めたのです。

このときはまだ旅行気分半分、「海外出張」に行くという事実に、自分がキャリアアップしたような気分になり、すっかり舞い上がっていた気がします。

どのくらいの量が1カ月で売れるのか、次に買い付けに行くまでにどのくらいの量を仕入れなければならないか、ということは頭になく、母親の援助と自分のなけなしの資金を手に、ありったけの量を買い付けてきました。

友人の助けを借りて、手作業で棚などを取り付けた店内に、そのありったけの在庫を並べてみても、お店はいっぱいになりません。でも買い付けには現金が必要なので、またすぐに買いに行くことはできません。とりあえず、国内の業者で、後払いで卸してくれるところをあたってみて、徐々に在庫を増やしていきました。

自分で選んだものを気に入ってもらえて買っていただける喜びと、思いもかけず人気が出た商品なども重なって、徐々にお店は軌道に乗り始めました。

なんとか少しずつでも利益が出るようになってくると欲が出てきます。「もっと売り上げを上げることはできないか?」と考えてみた結果、お店の広さは変わらないのだから売る商品の単価を上げるしかない、という結論に行きつきました。

雑貨ですと、よっぽどアンティークだったり、貴重価値があるものだったりしない限り、そんなに単価の高い商品はありません。まして、アジア=安い、という仕入れ値の安さで置く商品を決めてしまったので、当然売価も安いものばかり。

それでは・・・と徐々にバッグやサンダルなどの衣料雑貨を増やすことに決め、それに合わせて洋服も置くようになっていきました。

国内の業者で〆支払で商品を卸してくれるところも探しましたが、どうにも思うような商品が集まらない・・・そんなとき、自分でアパレルのショップを経営している女性と知り合い、シーズンごとにニューヨークやラスベガスに買い付けに行っているから、一緒に行かないか、という誘いを受けました。

その誘いによって、アパレルや雑貨の仕事に関わる人間の憧れである、「海外買い付け」に、また行きたい!という気持ちがムクムクと膨らんできたのです。

そんなある日、地元の商店街を中心として融資を行っている信用金庫の担当者が店に訪ねてきました。今からは考えられませんが、中小企業(というか個人商店でも)を取りこんで融資額を増やしたい営業の方と、借りられるものなら借りてでも「海外買い付け」に行きたい私とで話が合い、融資の申し込みをすることになったのです。

連帯保証人は母親です。(この連帯保証人というのが曲者で、後で債務整理をする際に連帯保証人を立てている分だけ問題になるのですが、このときはまったく知識がなく、他人に頼むよりは身内で、という感覚で母親に頼みました。)

普通は借金の保証人、というと何かあったときに返済が降りかかってくるのではと恐れてなかなか、なり手がいないと聞きます。でも母親は自身で商売をしていた際に何回か銀行から融資を受けた経験があり、いざというときは借金をすることにあまり抵抗がなく、あっさり賛成して連帯保証人になってくれました。

金額はOLだった自分にしては大金の100万円。当時お店の売り上げが月間30万から60万だったのですから、よく融資が通ったものだと思います。理由としては、在庫の多くが海外仕入れで原価率が低かったこと、それと母親が自己所有でマンションを持っていること、以前にも別の担当者から借りて完済していたことなどが重なり、融資が下りたのではないかと思っています。

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