債務整理コラム

自称「善人」の債務者たち

世の中にはいろいろな考え方の人がいます。お金が何よりも大事。命の次に、もしかしたら命よりも大事と豪語している人だっているかもしれません。見たことはありませんが、懸命に探せばきっといることでしょう。逆にお金なんてたいしたものではないという人は大勢います。心のどこかでお金は汚いものだ。お金では幸せは買えないという人は古今東西いかなる場所にも存在しているのです。

さてお金とは別に、人には生き方の基準となるものがたくさん存在します。哲学しかり、宗教しかり、国籍しかり、民族や人種、政治思想にいたるまで人の生き方は本当にさまざまです。

いずれにせよ、これらのあらゆる人が自分の考えを「正しい」と捉えているはずです。とはいえ「正しい」ことがイコール「善人」ではありません。「善」ともなると、これは考えが変わります。たくさんの人を救うために少数の人を犠牲にすべきか。それとも親しい少数のために、会ったこともない多数を犠牲にしても許されるのか。それはあくまでも個々人の考えによるものです。少なくともそれらには個々人における「善」とはなにかという深淵なテーマが含まれてきます。とくにこの「善行」が政治に向かうと、ときに強烈なお金の問題を孕む可能性は否めません。

昨今、インターネット内でもよく採り上げられていますが、パソナグループの会長の竹中平蔵氏が2008年の文藝春秋『ニッポン経済の「ここ」が危ない!』にて以下のようなことを述べていました。(以下引用)


竹中氏:ハーシュライファーという人が唱えた「パワーパラドックス」という法則があるんです。簡単に言うと、こんな法則です。

経済的な弱者は政治的に保護される
→保護されることで競争から解放され自由時間ができる
→自由時間を政治活動に使う
→経済的弱者は政治的強者になる。

ビジネスで忙しい人間は、時間のかかる政治活動なんかやっている暇はありません。その結果、経済的弱者は政治的に大きな声を持つようになる、というパラドックスです。思い出してみてください。霞が関や永田町で陳情を行っている人たちは誰でしょう。競争で忙しい為替のディーラーがデモをしているのは見たことがありません。日本ではこのパラドックスの影響が社会全体に大きく出ているように思います。言うまでもありませんけれど、一部の政治的な強者の存在感が大きくなりすぎると、決定される政策は間違ったものになりやすい(引用終)


いかがでしょう。少々極論のような気もしますが、一片の真理を言い当てている気もします。実際、ニュース番組などでは省庁の前でデモを行っているリベラル派の人々の姿が放送されたりしますが、少なくとも彼らはゴテゴテした指輪を身につけたり、高価なスーツを身にまとったりはしていません。逆に保守派の人々だってこの点は同じです。

リベラルであれ、コンサバであれ、はたまた中道であれ、彼らには彼らなりに属している共同体があります。これはたとえばリベラル派でいえば、社会的な弱者・生活困窮者・高齢者・マイノリティなどです。しかしリベラル派のバックアップである彼らにお金があるかといえば、あるはずがないのです。

政治において資金力がないということは、けして楽なことではありません。そのため、彼らの存在は、多数派であるところの、いわゆる「中流階級」の人からはさらに敬遠されてしまいます。こうして生活に困窮した社会的弱者・債務者はさらなる借金地獄へと陥り、そこから逸脱するために血眼になって政治的な救済を求めるという一種の悪循環へと陥ってしまうのです。

日本という国は「一億総中流」と呼ばれた時代もあるくらい、共同体意識が強い国民性です。逆にいえば、中流階級から見て「普通じゃない」位置まで転げ落ちてしまうとそこから這い上がるのは非常に苦しい仕組みになっています。そこを狙うのがたとえば借金の一本化を標榜する詐欺師やヤミ金などのような犯罪市場。国内の犯罪市場は弱者からさらに貪るための仕組みだといえるのです。

政治を変えるために草の根で声を挙げることは別に間違いではありません。ただ、変わる可能性は必ずしも高くはなく、また変わったとしてもそれが施行されるまでには長い月日がかかります。その間、借金の返済に行き詰まって苦しむのであれば、まずは法的な借金の整理を優先する方が目先の解決としては得策といえるかもしれません。

ページの一番上へ