債務整理コラム

滴骨血

借金に行き詰まった方の中には、債務整理について調べる人も多数おられます。自分の借金はどうか。債務整理をすべきか。自己破産を選ぶべきか、任意整理で済みそうなのか。過払い金についてはどうか。幾らくらい戻るのか。

このように借金について調べてゆくうちに次第に相当量の知識を貯めこみ、中には借金に関してなら司法書士も顔負けの情報を持っている債務者の方もおられます。ところがそういう人が知識を増やした挙句、自信をつけて、いざ自分で債務整理を行うと意気込んでもこれは失敗することが珍しくありません。よくあるパターンとしては実際に特定調停を行い、調停員からある程度の裁量ある提案をされた結果、些少の減債と引き替えに和解したケースです。

このような場合「自力で借金を減らした」と本人は得意気でも、債務整理事務所からすると専門家ならば遥かに債務を減らせたケースが多いのです。消費者金融が内心で舌を出している様が目に浮かびます。とは言え、既に調停を終えており、債務整理を行う意思もない方にそれを述べてはあまりにも不憫なため、口にすることはできません。

ではなぜ、債務者本人が債務整理を行うとなかなかうまくいかないのでしょうか。その理由は明白。現実と法律との間には乖離があるため。端的に言えば実践が不足しているためです。

実践とは何か。法を現実に適用する手段のことです。法律はカッチリとしているようで、よくよく読み込むと実に曖昧な内容にできています。例えば寺の裏になった柿の実を失敬した場合、これは犯罪になるか。窃盗と言えば窃盗ですが、それが渋柿だったらどうか。価値はあるのか。幾つ取ったのか。子供か大人か。それだけで解釈は大分変わるでしょう。隣の県からトラックを乗り付けて柿の実を全部奪い、それを売り捌いたのであれば犯罪になるかもしれません。逆に柿の木によじ登った小学生の子どもが一個ばかり実を失敬しても、逮捕される確率はあまり高いとは言えません。このように法的な解釈は曖昧なのです。

同じことが債務整理にもあてはまります。例えば借金の滞納をした債務者に対して、消費者金融は何時間でもごね続けます。しかし司法書士が間に入れば消費者金融は顔をしかめて即座に「あー、ハイハイ」となることも珍しくありません。取立屋が司法書士に勝てないことを向こうは熟知しているためです。それでも、借金の交渉についてあまり経験がない司法書士が取立屋と対峙した場合、取立屋側は交渉の余地ありと足元を見られて悪あがきをしてくることもあるでしょう。このように相手につけこまれず、いかに妥協なき債務整理を行えるかが個々の債務整理事務所の腕の見せ所なのです。

翻って債務者個人が消費者金融と交渉したり、特定調停の手続きを始めた場合、どうなるでしょうか。端的に申し上げれば消費者金融側は怒りを含みながらも債務者をなめてかかります。なぜなら消費者金融は弁護士を顧問に抱えており、借金をする個人よりもよほど法を熟知しているためです。加えて、かつてのグレーゾーン金利に象徴されるように、今に至っても彼らは法を破るか否かの白線の上に立ちながら業務を行なっています。このような海千山千のコワモテ連中に、債務者が交渉を持ちかけたところで相手は鼻で笑って終わりです。

例えば特定調停を行うため、債務者が取引履歴の開示を求めたとしましょう。しかし消費者金融は平然と「そんなものはありません」と言って一方的に電話を切ることもあるのです。もちろん本来であれば取引履歴は必ず開示しなければならないものであり、消費者金融の行動は明白な違法行為です。しかしいくら口頭でそう述べたところで実際のところ、債務者が取引履歴の開示を拒否された場合、債務者はその対処として思いつくのは民事裁判が精々でしょう。しかしその民事裁判を行うにもまた費用と手間がかかるのです。消費者金融側はここまで読んだ上で「債務者は特定調停を諦めるだろう」と取引履歴の開示を拒否するのです。

このように、さながら道路を走る自動車が制限速度を少しくらいオーバーしても検挙されないのと同様に消費者金融は平然と法を破ります。

手元に戻りますと、知識の拡充は素晴らしいものです。債務整理にしてもそれはしかり。しかしながらその知識はそのまま実践に用いることはできません。「滴骨血」と言う言葉があります。これは中国の陽明学と言う学問に由来します。陽明学は実践的・行動的な哲学であり、そのため、江戸初期頃より日本でも大いに採り入れられ、以降の武士道に多大な影響を与えました。

「滴骨血」について述べますとこれは、古代の中国ではしばしば革命が起こり、富貴の人の墓が荒らされました。墓荒しは亡骸となった貴人の衣服や埋葬品を剥ぎ取り、めちゃくちゃにしたため、誰が誰の墓かわからなくなると言うことが日常的にあったと言います。このとき、先祖と思しき骨に自らの血を注ぐと、もしそれが他人の骨だった場合、油に水を注いだように血は弾かれ、逆に先祖の骨だった場合、骨に血が染み込んだと言います。

転じて知識は身に纏わせるものであってはなりません。先人がまとめた人がより良く生きるための規則を法と呼ぶのであれば、我が身にしっかりと浸透し、それを応用できるまでに昇華させねばならないのです。

知識を得ることで危険を回避することができます。ならば借金でお悩みの方はその知識をもって安全な場所に退避し、後は法の専門家にお任せくださることが最良の結果に通じることをお約束いたします。

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