債務整理コラム

壺中天

借金をするとモノのみならず、時間もなくなります。お金には時間の側面があるためです。もちろん人は誰しも一日二十四時間しか時間を持っていません。しかし、お金のある人は面倒な事や手間のかかる事には関わりません。もし関わる場合にはお金を払って人にやってもらいます。この点がしっかりと理解できているため、お金のある人はますます時間とお金に余裕ができ、お金のない人は身を粉にして時間をお金に変える作業が必要となるのです。

お金がないのであれば、お金を気にしない生き方を目指せば良いと言う人もいます。生活の多様化が提唱される今般、ひとつの潮流として出つつあるものが、スローライフやロハスのような地産地消型のライフモデルです。必ずしも直截なテーマではないものの、それらの生き方にはお金があるから幸福だとは限らないと言う考えが見え隠れもします。しかしお金から顔を背けて生活すると言うのは、やはり現代においても生き方の主流とはなっていません。大いなる歴史のうねりの中に人類の幸福を覗き見るに、お金は常に大きな意味を持つためです。

お金がないと幸福ではないとの文句は是々非々で観るべきです。お金はモノに変えられます。時間に変えられます。そしてそれは心にゆとりをもたらします。ゆとりのない生活が幸せかと言えば、それは幸福の範疇に入らないでしょう。しかし、ゆとりとなるお金が少なくても、そのゆとりに幸福を見出すこともできなくはありません。その足がかりとなる言葉の一つに『壺中天』があります。

「壺中天」は人生の本然を説いた六中観の内の一つ。本邦においては自民党時代、代々の総理が謦咳に接し、また指南を仰いできた故・安岡正篤氏の書籍「百朝集」にまみえることのできる言葉であり「壺中に天有り」と読み下されます。元は中国の故事であり、古の時代、ある男が壺を売っている老人を眺めていたところ、ふとその老人は壺の中に消えてしまった。これはきっと仙人に違いないと男は思い、あくる日、老人に自分も壺の中に連れて行って欲しいと頼み込んで、ともに桃源郷を堪能してきた、と言った趣旨が由来です。

無粋な見方ではありますが、この話は、市場を通りがかった男が素晴らしい壺を見つけ、その焼成・作者・ゆかりなど、名品を肴に老人と心ゆくまで語り合ったと落ち着けることもできるはず。そしてそこには、人生の楽しみの真髄が散見されます。楽しみとは、お金をばらまくことで人と肩を比べたり、周囲を睥睨したりするのではありません。小さな物事に対して様々な角度から喜びと価値を見出してゆく。またそのために意識を丁寧に保ち、テレビのように垂れ流される刺激に終始することなく、例えばスポーツや伝統芸能・美術鑑賞のように、自らが率先して学び、ときに体験する心を持つように心がけてゆく。本来あるべき人間の自然(じねん)とも言うべき姿を壺中天には見出すことができるのです。

しかしながら上述はあくまでも人間的な生き方から説いたもの。借金生活においては傍流に過ぎません。借金の返済と言う本流から顔を背けていてはモノや時間と言った大切なものからいつまでも切り離されかねないのです。では、借金における壺中天とは何か。それは債務整理です。借金がいつも心の片隅を汚している人であっても、債務整理を行えば借金が消えてなくなる。これを念頭に入れておけば、いかな債務者であれ、必ず心に一筋の光明が差し込むはずです。借金を手放すことはいつでもできると言う前提を得られることで、そこで初めて、では今の債務がどの程度かと正面から見据え、それをどのような手段でどの債務整理事務所を用いて借金の整理をすれば良いかに着手することができるはずです。仮にすぐに取り掛からずとも、債務整理について自分なりに調べたことを想像するだけで胸の内はスーッと軽くなるはず。ましてや当所にご連絡を頂き、思うがままを語っていただければ債務者の方でも心ゆくまで満足できる時間を堪能できることは、当所としてもやぶさかではありません。

人生の喜びを記すことに洋の東西は問いません。イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクは壺中天と同様の意を「一粒の砂に世界を観る」と著述しています。多重債務で追い詰められたとしても悲観することなく、むしろその時だからこそ味わえる喜びを噛み締めつつ、自分なりの充たされた時間を作ることを心がけてみることで、人生に潤いをもたらすこともきっと不可能ではないはずです。

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