債務整理コラム

箔・用・あそび

借金をなくす方法は三つです。すなわち支出を減らすか、収入を増やすか、債務整理を行うかのいずれか。これらの内で最も着手しやすいものは支出の削減でしょう。無駄遣いを止め、倹約をすればお金は自ずと貯まるはずです。しかし、倹約と一口には言うものの、何を倹約し、何に対しては出費を許して良いのでしょう。債務者はテレビ番組で垂れ流される節約生活のような生き方を五年も十年もしないといけないのでしょうか。電球の照明を暗いものに落とし、水は一日にコップ三杯まで。家庭菜園で育てた植物は根っこも葉っぱも食べつくし、毎日かかさず懸賞のためにはがきを書く。それは自然な生活とはあまりにもかけ離れたくだらない遊戯です。極端でどぎつい演出がテレビの仕事であり、それを参考にしても借金の返済に貢献できるはずなどありません。どこまでお金を使い、どこから節制すべきか。それは一言で述べると「分をわきまえる」の一語に尽きます。では、それは一体どのような意味なのでしょうか。

そも、出費としてまず第一に欠かしてはいけない事柄に人間関係が挙げられます。人は関係で成り立つ生き物です。人と人とが関わり合えばそこに出費が生まれます。なぜなら他人と親しくありたい欲求はいつの時代であっても、人の心の裡に悠然と佇んでおり、そうしてその親しさを表す価値の尺度に人はお金を用いるためです。これは古今を問わず、自明の事であり、幸福な人生を目指すためには、むしろおかしな倹約をするよりは確保しておくべき出費であると言えます。

人と人との交わりにおいてより多くの信頼を得たい。本来まっとうであるべきこの願いに光が当てられるとしかし、そこには影が生まれます。人に認められ、あわよくば人よりも重んじられたいとの思いです。この欲を箔と呼びます。箔に最も恃みやすいものは高価なモノ。誇示への欲に呑まれた人は他人よりも良いモノを持ちたがり、そのために不当な出費を重ねます。自らの箔付けのために女子高生が高価なブランドバッグを持ち歩いているのをたまさか目にすることもありますが、その様は憧憬どころか、滑稽を通り越し、むしろ不憫の類と言えるでしょう。なぜなら何十万円もするブランドバッグと言うものは、高級車で目的地まで乗り付けた後、おともの人やポーターが運んでくれることで初めてその本然たる光輝を放つためです。バッグのデザイナーも元々そのような客層を想定し、またそのように使われるためにかくのごとき造形をデザインしているのです。これを勘違いして箔にのみ踊ると、箔は箔にならないばかりか、人生の旅路のおともに、ポーターならぬ借金を連れてきます。

ブランドは信頼の裏打ちに本分があります。信頼とは時間と人手をかけて多くの視点から検証を重ねてきたもののこと。同じ価格と性能の製品ならば、ぽっと出のベンチャー企業よりも、百年企業のモノの方が良いと言うのはそこに信頼があるためです。そしてもうひとつ。紛うことなき信頼を培ったモノには一種の美が生まれます。時流時流で人のニーズは異なるものの、それに合わせつつも無駄を省いた本質が信頼あるモノには存在し、それが自然の摂理に適うのです。日本語で言うならばそれは用の美であり、英語で言えばインダストリアルアートが該当することになるでしょう。例えば美術品として日本刀があります。日本刀の美とは「斬る」と言う理(ことわり)を極めたところにあるのです。もし日本刀を杖やつっかえ棒に用いたのであれば、刀はたちどころにその価値を喪失します。それは先のブランドバッグを引きずって歩く女子高生が鼻持ちならぬ傲慢とみすぼらしさに染まるよう、誰の目にも明らかです。

では、借金で苦しんでいる人は日本刀もさながらに、自らの目的のため、最低限の用にのみ人付き合いを終始すべきでしょうか。けしてそのようなことはありません。たとえば刀には握りとなる柄の部分に工夫が施してあります。「あそび」を持って握れるのです。このあそびとはすなわち、ゆとりのこと。握りにゆとりがあることで日本刀は斬り下ろす際にその威を増し、ひいては鉄兜をも二つに割ることができるのです。同様に今借金で苦しんでいるのであれば、必要な程度にゆとりを持ちながら、人やモノなど、周囲の事象と接してゆけばよろしいのです。

一事が万事と申しますが、人付き合いにのみならず、お金がないのであればお金がないなりに、既往と同様に「用」を目的に「あそび」を持ってすべてに接してゆけば状況は好転してゆきます。これこそが節制の本義。ただ、難しいのは自らの心の裡をよくよく覗き、自らを律していかないと「あそび」はともすれば「箔」に変わってしまう点です。チンピラがみっともないのは何の理念もなく、あそびから箔付けをしようとするためです。彼らが好んで乗っている、電飾がビカビカ光ったスクーターや安物のウーハーで轟音をまき散らしている自動車などを想像してみれば、その惨めさがお分かりになるはず。そこには「用」も「理」もありません。だから美しくないのです。

目的がしっかりさえしていれば無駄な出費はしません。ときに用に適えるままにそこにあそびを加え、快さの演出に向けて出費をするのも良いでしょう。いずれにせよ、節制において大切なのは己の分をわきまえることです。ここから逸脱すると見栄や箔付けに呑まれて借金に借金を重ねかねません。逆に分をわきまえずに借金をしすぎたと言うことで、にっちもさっちも行かないのであれば、債務整理を行なってあるべき姿に戻れば良いだけのことなのです。

用の美を問いた茶人、千利休はかつて茶道の極意を問われ、このような意を申しました。「(花を活ける際)花は野にあるように」。節制においても、自然に無理のない生活を目指しましょう。そうすればさしたる苦痛を覚えずとも、借金も少しずつ減ってくるはずなのです。

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