債務整理コラム

看脚下

戦国の昔より、有名な剣豪や武将は大きな悩みに突き当たる都度に座禅を組んできました。禅は悟りを開くその途次に、己を見つめ直し、悩みの克服に至るひらめきをも含んでいるためです。また古来より、人の悩みは人間関係・健康・お金の三つに大別されると言います。もし禅が悩みの脱却につながるのであれば、それは無論、今現在借金で苦んでいる人にもなにがしかの価値を持つはずなのです。

禅の世界はときに短い言葉で表されます。そのひとつ『看却下』は有名な禅語。今から約千年前、中国は宋の時代の禅僧にちなみます。看脚下の由来を簡単に解説しますと、あるとき、夜道をお坊さんたちが歩いていたところ、ふと灯りが消えてしまいました。するとお坊さんは、今の己が心映えを言葉にせよと弟子に問うたのです。弟子は「足元を見よ」と答え、お坊さんはそれを良しとしました。看脚下は、よくお寺の玄関に飾られています。語彙をよくよく考えて、ふと足元を見遣るに、そこにはお坊さんのちょっとした茶目っ気を感じることもできることでしょう。とまれ、靴を揃えましょうと言うほどの浅さにも看脚下は意を見出すことができますが、そこはやはり禅の世界。まろやかな響きの裏に、ひとけのない淵のような幽玄な深みが悠々と湛えられているのです。

さて、借金が返せなくなることは、次第に目の前が暗ずんでゆくのにも似ています。明日の生活、明後日の用立て、一週間後の返済……。金利が嵩むにつれて人生の斜陽もだいぶんに降ります。ましてやおぼろが進んでゆきますと、借金に苦しむ世界では、ほんの眼と鼻の先のことすらわかりかねてゆくのです。そのようなとき、返済に苦心する人はまなこをこすります。霞む視界を何とかはっきりさせようと懸命に目を凝らします。借金生活が苦しくなればなるほどにその傾向は顕著になります。しかし、果たしてその行為が正しいと言えるでしょうか。

道に迷ったとき、人は地図を用います。自分が今どこにいるのかを確認するためです。そうして次にコンパスを使って目的地への針路を見つけます。例え目前が藪に阻まれていようと、峨峨たる険峻が聳えていようと目的地を示す針はけして揺るぐことがありません。ひるがえって借金地獄に陥っている人はどうでしょう。増えゆく金利にいよいよ重い足を引きずりつつも、ほんの目の前に丈の高い草があれば、首を左右に傾けては向こうを透かしてみようとします。また不意に前に湖畔が開ければ、進むべきか引き返すべきかに懊悩します。追いかけてくる借金取りの一挙手一投足に怯えて夜を明かすこともあるでしょう。ともすれば取立の罵声に浴して気持ちが逼迫してしまい、泉下への旅路すらも脳裏を掠めるかもしれません。そこまでいかずとも借金生活とは、一歩歩くたびに環境に振り回され、やがては何のために生きているのかわからなくなってしまう迷い道を歩んでいるようなものなのです。

では、借金をした人が目指すべきは一体どこなのでしょう。再び禅に戻って考えてみます。そもそも禅とはあるがままの境地を目指すものです。何ものにもとらわれず、自然な生き方を求めることが目的だとも言い換えることができるでしょう。対してマクロ・ミクロを問わず、現在の経済システムはその概要からして不自然で、個人の日常生活にあっても一際いびつなものであると言えます。これは借金と言うものが存在するためです。

借金とは「ないもの」を持ってくる行為。借金をすると言うことは、それまで円満だった日常に圭角を持つようなものなのです。なぜならば借金とは人からお金を借りるのではなく、人をなかだちにして自分の未来からお金を借りてくる行為であるためです。そう考えてみると、今借金の迷い道で呆然と立ちすくんでいる人は、お金を借りる際に借金の完済と言う着地点を想像していなかったか、さもなくば現実の不如意によって想起した目的地とはまったく異なる場所へと襟首を掴んで放り投げられたかのどちらかであるはずなのです。

さて、事ここに至りて、もう一度その真価を問うてみたい言葉。それが『看脚下』です。目前の藪に右往左往したり、蝿の唸り然とした借金取りの煩わしさに心を千々に乱されたりせず、まずは己の足元を見つめてみましょう。とは言え、寺務所の玄関がごとく、実際に足を眺めても仕方がありません。ここで述べる看脚下の足元とは即ち「今この瞬間」であり、かつまた「自分自身」と言うことなのです。

ほんのつかの間でも良いのです。あくせくとした借金返済への苦慮を突き放し、今この瞬間の自分をあるがままに眺めてみると色々と見えてくるものがあるはずです。例えばそれは自分と周囲の人々との関係。何とかお金を工面できないだろうかとの思惑が底流にあるばかりに、バランスの崩れた人付き合いになっているのではないでしょうか。借金に心を追われた結果、角の立つ物言いになってしまったことはないでしょうか。のみならず、業務とプライベートとの関係が崩れたり、健康的で規則正しい生活リズムがアンバランスになったりしてはいないでしょうか。

この社会にあるものはすべてが密接にからみ合っています。「風が吹けば桶屋が儲かる」のことわざがありますが、世の中はたとえ目に見えないような些細な事柄まですべてが複雑に絡んでいるのです。これを関係性と呼びますが、借金の返済が苦しくなってから、これまで円滑に進展していた他の事柄までバランスが崩れてしまうのは、この不自然な関係性が、さながら風に糸が揺れるように他の事象にまで波及しているせいだと言えるでしょう。端的に言えば、本来不自然なものである借金を生活に呼び込んでしまったせいで、他のあらゆるものが不自然なかたちへと変貌してしまっているのです。

先の見えない借金返済に疲れたのであれば、前を見るのではなく、まずは自分の足元に目を落としてみてはいかがでしょう。そうすればお金のみならず、人間関係、仕事、健康、名誉など、幸福な人生を歩むために必要な要因の幾つかを、いつしか取りこぼしていることに気づくはずです。

債務者となった人にとって、債務整理の言葉にはやや難解な響きがあるようです。小難しい法律用語に裏打ちされた諸々の煩雑な手続きやそれに伴いかかる費用、借金と引き替えに訪れそうな不透明感のあるデメリット。どうにもそのような印象を免れ得ないことでしょう。しかし、債務整理とは一言で言えば借金をなくすこと。それは即ち借金によっていびつな生活に陥ってしまった人生を、バランスの取れた正常な状態に戻す唯一の方法なのです。

さて今回は禅をテーマに借金を斬ってみましたが、禅とはそもそもが人によって無限の捉え方がある世界です。禅の真髄は不立文字とも言われる通り、言葉では体現できない感じ入る深みの世界でもあります。浅い深いもまたそれぞれ。甲論乙駁すべきにはありません。それでも借金で困っている際、当たり前の状態に戻れるよう、まずは足元を見てみましょう。そうして債務整理によって借金が片付いたのであれば、重荷を降ろしてようよう軽くなった心でもって、今度はもう一度「看却下」の三文字をゆっくりと味得してみるのも乙なものかもしれません。

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