債務整理コラム

法の深淵を覗きこむとき

複数のサラ金からお金を借りてもう借入先がなくなるほどの状態は、一般的に見て生きるか死ぬかの瀬戸際に近いものがあります。「なりふり構っていられない。とにかくお金を借りられればいい」と言った気持ちになると、不思議とさらに相手を騙そうとするような詐欺師が目を付けてくるのです。それはどうしてでしょうか。

Aさんは50代の零細企業の経営者。既に多重債務に陥っている上、今月はたまさかの理由により取引先からの支払いが滞ってしまいました。結果、消費者金融への返済に宛てるため、さらに新しいサラ金からお金を借りることを考えたのです。

金融詐欺師は多重債務に陥った人の名簿をどこからか調達してきます。そのため、Aさんが消費者金融を捜すよりも早く、ある金融ブローカーから電話がかかってきました。

「100万円をうちにお貸しいただけませんでしょうか」とブローカー。
「いや、そんなお金どこにもありませんよ」とAさん。
「いえね、100万円をお貸しいただければ、100万円の借用書を書いたまま、50万円を即座にキャッシュバックいたします」

ブローカーの言葉によれば、100万円を貸してくれるのであれば、まずその場で50万円の返金。後でさらに100万円返金すると言うのです。

無論、一般の人はまずそんな言葉に騙されません。しかし、Aさんは既に複数の消費者金融から借入をしており、借入先を捜すにも、もはや先方から断られるような債務状況だったのです。もちろん、それでもいつものAさんならばそんな胡散臭い甘言は一顧だにしません。ただ、その数日前からAさんは何とかお金を工面する方法を画策し、審査の甘いクレジットカードの話題やらヤミ金紛いのダイレクトメールの文言やらにもちらちらと目が行くような精神状態に陥っていました。

この結果、Aさんは思わずブローカーの言葉に耳を傾けてしまいました。ブローカーいわく、自分は緊急で入用になっているためにAさんに電話をしているのであり、悠長な時間的余裕はないから早くして欲しいとの催促も付け加えていたのです。

早くお金を貸して欲しい。そのかわり、うまくすれば50万円と煽られてしまい、矢も盾もたまらず、Aさんはある消費者金融へと電話をします。そこは少し前までテレビCMでも盛んだった大手の金融会社でした。Aさんはそこでときどき借金をしては返済を繰り返していたため、顔なじみの担当者もいたのです。

「Bさんはいますか」とAさん。「実は急にお金が必要になりまして」
BさんはこれまでAさんに幾度か融資を行なっていたことがあり、また今回、Aさんが債務超過に陥っていることも知っています。
「どういうことでしょう」
貸すつもりはなくても、失礼にあたらないよう、とりあえずBさんは事情だけでもお伺いするつもりでした。そうして「実は」とAさんが切り出した話を聞いて、Bさんは思わず嘆息してしまいました。「Aさんね、それは詐欺ですよ」

まったく知らない仲でもなし、老婆心から懇々と諭してあげようとしたBさんでしたが、あいにくとAさんはまるで聞く耳を持ちません。しまいには「お金も貸さずに説教だけする気か」と怒鳴りながら電話を切ってしまいました。

結局Aさんは友人か親戚かはたまた何かを売ったのか、ともあれお金を工面したようです。そうして言われるままに先方の指定する口座にお金を振り込みました。もちろんその後、待てど暮らせどブローカーから連絡はありません。心配になってかけてみた電話も不通になっており、また銀行へ連絡してみたところ、口座は赤の他人名義のものを利用されていることが判明したのみでした。

これにてAさんの話はおしまいです。何とも後味の悪い話ですが、これはつい最近にあった実話です。しかし、この話を聞いてAさんは愚かだと笑うことはできません。

お金に困窮すると、人は「裏道」を探し出します。法律と言うものはとても柔軟にできていますが、一線を超えかけてしまうと何が悪くて何が正しいのかが分からなくなってしまうのです。例えば既に債務超過に近い状態なのに審査の甘い時期を狙ってカードを作ることはどうでしょう。法的には問題なくても、道義的には良くありません。返せるあてがないのですから。ではカードのクレジット枠ではなく、ショッピング枠でチケットを買っては金券屋に売りさばいてお金を作ることを繰り返していたらどうでしょう。法的にはグレーに近い感じですが、それを止める人は誰もいません。しかし、これも破産を繰延させているだけのこと。褒められたものではありません。このように次第次第に法律の境目に近づいてくると、正しいことと正しくないことの判断基準が著しく曖昧になってきます。その結果、「甘い話」を餌に詐欺師が来た場合、ついうっかり引っかかってしまうのです。

『深淵を覗き込むとき、深淵もまたお前を覗き込む』とはかの有名なニーチェの言葉です。同じように法の深淵を覗きこむとき、法の深淵もまた自分を覗き込んでいるのです。

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